作成ネタありきで仕事が始まること。
作成ネタをつくることで仕事になること。
これらは等価ではない。


いまの職種を考えるときにしみじみと実感することがある。
一つは業界に携わる人種の多数に知識がない。
一つはそれでもなお何とかしようとしている人々がいる。
この2点である。


知識がないとどうなるか。
発注者に知識がない。
受注者に知識がない。
この状況においては受注者が口達者であれば
発注者が判断できないことを示す。
専門用語をしらないなりに発せられても
それを判断する術がないっということである。
これが今、ある。


それでも何とかしようとする。
実に虚しい作業に思えてもしょうがない現実がある。
お金の出所がどこか?
お金を出すための判断をくだすのはだれか?
実際に使うのは誰か?


これらを考えたとき。
収入が大事である現実問題を考えたとき。
詐欺でも働いているほうが実入りになるってのが正しいような気がしてくる。
だってだれも判断できないんだもん。
判断している気になっているヤツラは多いのだが。


プログラムを作る時。
今や昔の自分と重ねることが多くなってきた。
ああ、この人たちはまだこの位置にいると。
それでも貴重な存在に思えるほど知識がないのはカネを握っている層にいる。
笑い話のような失敗プロジェクトのネタに事欠かないのはこのせいだ。
今なら断言できるくらい強く言える。


しかして。
現実問題はカネが大事だ。
資本主義社会の原点だ。
否定はしちゃいけない。


おいらは技術力の発揮場所が欲しい。
ゼニなんざ多少贅沢できるくらいあれば十分だ。
とはいえ、発揮場所がほしいのと与えられるのは別問題である。
発揮場所は自分で勝ち取らねばならん。
めんどい。
けどやらねば望みの場所にはたどり着けないことを思えば
やってみる以外の選択肢があろうか?
いやない。


自身、客観的に考えればやはりそういう結論に達する。
やりたくないのも自分。
やりたいのも自分。
どちらかがより強い思いであるかは自明の理である。


この数年間逃げ続けてきたこととやはり向かい合うことになったかな〜とも思う。
逃げ続けても後押しされると感じられる現実には従っとかなあかんのかなとも思う。
ってことで。
やっぱりやろう。
しばらく沈む生活を経てもやる。
やりたいんだからやる。
さぼりたい自分を乗越えてみようと思う。